ワラキア(英語:Wallachia、ルーマニア語:Valahia、ハンガリー語:Havasalfold )は、ルーマニア南部の地方名である。ルーマニアの首都ブカレストがある地域で、かつては14世紀に建国されたワラキア公国があった。ここでは、古代に始まり、モルダヴィアと統合してルーマニア王国が成立するまでのワラキアの歴史を主に記す。
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目次 [非表示]
1 地理
2 歴史
2.1 古代
2.2 公国の誕生
2.3 1400年-1600年
2.3.1 ミルチャ1世からラドゥ大公の時代
2.3.2 ミフネア・チェル・ラウ公からペトル・チェルチェル公まで
2.4 17世紀
2.5 露土戦争とファナリオティス時代
2.6 ワラキアからルーマニアへ
2.6.1 19世紀初頭
2.6.2 1840年代から1850年代
3 関連項目
4 脚注
5 参照
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[編集] 地理
ワラキアという地名は「ヴラフ人の国」という意味でルーマニア国外では慣用的に使われている呼称である。ルーマニア語には同義のヴァラヒア(Valahia)という呼び名もあるが、ルーマニア国内では「ローマ人の国」を意味するツァラ・ロムネヤスカ(bara Romaneasc)のほうがより一般的である。
ワラキアはドナウ川の北、南カルパチア山脈の南に位置する。オルト川で東西を分け、東部をムンテニア、西部をオルテニアと呼ぶ。モルダヴィアとの境は、伝統的にミルコヴ川(en:Milcov River)となってきた。ドナウ川河口の南北を領するのはドブルジャである。
首都とされた都市は時代と共に移り変わり、クムプルング(en:Campulung)からクルテア・デ・アルジェシュ(en:Curtea de Arge_)、トゥルゴヴィシュテ(en:Targovi_te)、そして16世紀後半からブカレストが首都となった。
[編集] 歴史
[編集] 古代
ローマ時代の属州ダキア。ピンク色部分第二次ダキア戦争(紀元105年頃)の際、オルテニア西部が属州モエシアに含まれていたダキアの一部とともに、属州ダキアの一部となった。ローマの国境線がオルト川沿いに建設された(119年)。2世紀中に国境線は東へ伸び、ドナウ川からカルパチア山脈にあるルカル(en:Rucr)へ拡張した。国境線は245年にオルト川まで退却し、271年にローマ人らはこの地域から撤退した(短期間のローマ支配で、ローマ文化とキリスト教が伝搬した)。
ゴート族やサルマタイ人など遊牧民族がもたらしたムレシュ=チェルナエホフ文化(en:Chernyakhov culture)の存在が現在のルーマニア全土に広まっていた頃と同時に、民族移動時代にローマ化された。328年、ローマ人がチェレイとオエスクス(現在のブルガリア・プレヴェン州)の間に橋を架けた。ドナウ川北方の人々との交易があったことを暗示するものである(コンスタンティヌス1世時代に短期間ワラキアが支配されていたことは立証されている)。332年、ゴート族がドナウ川南部のローマ帝国領を攻撃し、彼らはドナウ川北岸、のちに南岸に定住した。ゴート族支配は、アッティラ率いるフン族がパンノニア平原へ到着した時に終焉を迎え、ドナウ両岸にあったゴート族の定住地は攻撃され破壊された。
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東ローマ帝国の影響が5世紀から6世紀にかけてあったことは明かである。しかし6世紀半ばから7世紀にかけてスラヴ人がワラキアへ移動し始め、定住した。彼らは東ローマ領のドナウ南岸を占領した。593年、東ローマの将軍プリスクスはスラヴ人、アヴァール人、ゲピド人(en:Gepids)を打ち負かした。602年、スラヴ人は手ひどい敗退を喫した。マウリキウス帝は帝国軍にドナウ北岸へ展開するよう命じ、軍の強固な反対に直面した。
681年に成立した第一次ブルガリア帝国にワラキアは支配され、10世紀後半にマジャル人がトランシルヴァニアを征服するまで続いた。ブルガリア帝国が衰え東ローマ帝国へ従属するようになると、10世紀から11世紀にかけ勢力を拡大してきたトルコ系のペチェネグ族がワラキアを支配下においた。1091年頃に南ロシアのクマン人がペチェネグ族を敗退させ、モルダヴィアとワラキアの領土を手中に入れた。10世紀初頭、東ローマ、ブルガリア、ハンガリー、のちに西欧の記録はルーマニア人(ヴラフ)の小さな政治形態が、最初はトランシルヴァニアで、12世紀・13世紀にはトランシルヴァニア東部やカルパチア山脈南部で、クニャズ(en:Knyaz、公)やヴォイヴォド(en:Voivode、総督や知事)に率いられて乱立していたことを示している。
1241年、モンゴル人のヨーロッパ侵攻でクマン人支配は終焉を迎えた。ワラキアはモンゴルの直接支配を受けたとされるが証明されていない。ワラキアの領有については、ハンガリー王国とブルガリア人の間でおそらく議論された。しかし、モンゴル侵攻を受けたハンガリー王国の過酷なまでの弱体化は、ワラキアにおいて新しく強固な勢力が確立するのに貢献することになった。
[編集] 公国の誕生
ポサダの戦い。14世紀ハンガリーの年代記クロニコン・ピクトゥムよりワラキアのヴォイヴォドについて初めて記述がなされた断片には、カルパチア山脈の両側の土地を支配していた(ファガラシュを含む)ワラキア公リトヴォイとのつながりが登場する(1271年)。彼はハンガリー王ラースロー4世へ朝貢することを拒んだという。リトヴォイの後を継いだのは弟のバルバト(en:Brbat、在位1285年-1288年)であった。さらなるモンゴル侵攻(1285年-1319年)でハンガリー国家の弱体化は続き、アールパード王家が衰退したことでワラキア政治形態の統合、そしてハンガリー支配からの脱却の道が開けた。
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ワラキアの建国は、言い伝えによれば伝説のワラキア公ラドゥ・ネグル(en:Radu Negru)の業績とされてきた。ラドゥ・ネグルは、オルト川の両岸に支配を確立しハンガリー王カーロイ1世に対し反乱を起こしたバサラブ1世(en:Basarab I)と歴史的につながる。バサラブ公はバサラブ家初代の公として、クンプルングに宮廷をかまえた。彼はファガラシュ、アムラシュ(en:Amla_)、セヴェリンの領土をハンガリーへ渡すことを拒み、1330年のポサダの戦いでカーロイ1世軍を打ち負かした。バサラブは東へ領土を拡張し、ブジャクのキリアにまで至る領土を支配した[1]。彼の後継者らはこの遙か東方の領土を維持することができず、キリアは1334年頃ノガイ人(en:Nogais)によって奪われた[2]。
バサラブ1世の次にワラキア公となったのはニコラエ・アレクサンドル(en:Nicolae Alexandru)で、ニコラエの次はヴラディスラヴ1世(Vladislav I)が継いだ。ヴラディスラヴは、ラヨシュ1世がドナウ川南部を占領したあとにトランシルヴァニアを攻撃した。1368年にヴラディスラヴは自身を大王として認めさせようとしたが、同じ年に再び反乱に遭った。彼の統治時代は、最初のワラキア=オスマン帝国間の対決を目の当たりにした。対トルコ戦でヴラディスラヴはブルガリア皇帝イヴァン・シシュマン(en:Ivan Shishman of Bulgaria)と同盟した[3]。 ワラキア公ラドゥ1世と彼の後継であるダン1世のもとでは、トランシルヴァニアとセヴェリンの領域がハンガリー王国との間で争われ続けていた[4]。
バサラブ1世以降、統一されたワラキアの統治者は『公』(ルーマニア語:Domnilor、英語:Prince)と呼ばれるが、一つの家系が世襲する国家ではなかったことが特色である。それぞれが大土地所有者であるボイェリ(en:Boyar、ボヤールとも。封建貴族階級)は、自身の領土から賦役と十分の一税を取り立てる封建領主であった。彼らは同じボイェリの中から、自分たちを代表する人物を公に選ぶ選挙制をとっていた。そのため、公は終身制と決まっているわけではなく、2、3年で交替したり、同じ人物が2度・3度公位につくことがあった。
[編集] 1400年-1600年
[編集] ミルチャ1世からラドゥ大公の時代
ワラキアの県を表した地図。1390年頃[5]バルカン半島全体が、出現したオスマン帝国の必須部分となることで(1453年にスルタン・メフメト2世がコンスタンティノープルの陥落を終結させた過程)、ワラキアはトルコとの常習的な対決で時を費やされるようになった。ミルチャ1世(en:Mircea the Elder、在位1386年-1418年)時代末期にはワラキアはオスマン帝国の属国となった。
外為
ミルチャ1世は初め数度の戦い(1394年のロヴィネの戦いを含む)でトルコを敗退させ、敵をドブルジャから駆逐して自身の支配を広げた。彼は、神聖ローマ皇帝ジギスムントとポーランド・ヤギェウォ朝との間の同盟に考えが定まらなかった(どちらの国ともニコポリスの戦いで同盟した)[6]。1415年、メフメト1世がトゥルヌ・マグレレ(en:Turnu Mgurele)とジュルジュを支配下においた後、ミルチャ1世はオスマン帝国の宗主権を受け入れた。この2つの港は短期間の中断があったものの、1829年まで軍直轄地としてトルコの支配下におかれた。1418年から1420年、ミハイル1世(Mihail I)がセヴェリンでトルコを負かしたが、彼がトルコの攻撃で殺されただけだった。1422年、対トルコ危機はわずかな間ワラキアから目をそらした。ダン2世(Dan II)が、ハンガリー軍人ピッポ・スパノ(en:Pipo of Ozora)の助けを得てムラト2世軍を打ち負かしたのである[7]。